「時間を返す方法、怒りを静める方法を上司と相談してきてください」
戸籍職員にとっての繁忙期、それはカレンダーにある通りの良い日だ。
おなじみの大安のほか、一粒万倍日、天赦日と良い日はいくつかある。
これから話す出来事は、そんな良い日が重なり、婚姻届を手にしたカップルが列をなして並ぶ日に起こった。
窓口に現れた男性は、ごく普通の身なりの優しげで穏やかな男性。
署名しか書かれていない転籍届を取り出し、「A市からこちらに(B市)に移したい。」と言われる。
私「今の本籍はどちらですか?」男性「B市です」
私の頭に?マークが浮かぶ。今の本籍地に本籍地を移す?
私は念のために聞き返す。
「A市からこちら(B市)に移されるということでよろしいですね?」
頷く男性。
経験上、市の名前を間違えることはよくあるため、先ほどの軽い疑問は受け流すことにした。
転籍の手続きには戸籍の謄本の添付が必要になる。
しかし男性は戸籍謄本を持ってない。
念のため、何度も会話の中で確認をする。
A市からB市へ転籍をするためには、戸籍謄本が必要であり、今の本籍地であるA市でしか戸籍謄本はとれないこと。A市やB市のワードを特に意識して何度も繰り返し説明する。
混雑した窓口、そして男性は理解ある様子だったので、B市での男性の情報を調べるという作業をしなかった。これが判断の誤りだった・・・。
私の説明を聞いた男性は穏やかなまま、頷き、席を立った。
そして数時間後、男性は怒りを抑えられない様子で戻ってきた。
A市に行ったところ戸籍謄本をもらえなかったと。
話を聞いてみると、A市からB市への転籍ではなく、B市からA市の転籍だったのだ。
本籍地でないA市では戸籍謄本はもらえない。
男性は「自分は間違ったことは言ってない」の一点張りであるため、こちらが折れるしかない。
「自分の聞き間違いだったようです。申し訳ありません」と平謝りをする私。
男性「A市に行ってきた。かかった時間は3時間、その時間を返してください。それから、腹の虫が治まらない。これをどうにかしてください」
私「申し訳ございません・・・。早急に手続きをさせていただきます」
男性「早急な手続きは当前です。私の言っているのは、時間を返して欲しいことと、腹の虫を治めて欲しいのです。」
言葉は丁寧だが、目には怒りを含んでいる。
禅問答のような要求に、何も言葉がでない。
2人の間に長い長い沈黙が続く。
時間を大事にするわりに、なぜいつまでも不毛なやりとりを続けるのか。
この男性は一体何がしたいのか。この状況はどうしたら終わりが迎えられるのか。
こうしている間にも、戸籍の窓口は人手不足で大変なのだろう。
男性が「上司を・・・」と言い始めた。
私「ただいま上司を連れて参ります・・・。」
しかし、予想外の反応。
男性「上司を連れてこいと言ってるんじゃないんです。上司に相談してきてくださいと言っているんです。私に時間を返す方法を相談してきてください」
私の頭にまた?マークが浮かぶ。この人の目的は何なのか。
上司に男性の言ったことをそのまま伝えたが、上司も勘違いしたらしい。
男性の前に現れた上司に対し「来てもらうように言ってない」と言う男性。驚く上司。
経験上、クレーム対応中に相手から「上司」というワードが出てきたとき、それはほぼ100%「連れてこい」だ。私は自分の経験を過信してしまった。おそらく上司もそうだったのであろうと思われる。
男性の面前で、上司は多弁になり何度も謝る。
私と違い、上司とは話が通じると言い、怒りが治まってきたと話し、そのまま手続きしてお帰りになった。
帰る頃には、別人かと思うくらいに大人しくなっていた。
この変化にも軽い衝撃を受けた。
男性から言われた言葉が頭から離れない。
「あなたとは通じない」と。
私も同じ気持ちです。
長く仕事をしていても、人に慣れることはできない。
自分の考えの及ばない、いろんな人がいることを改めて思う。
私と上司で違うことは、無口か多弁か、そして頭の下げる回数しかわからなかった。
つまるところ、この男性は、何度も頭を下げられ言葉をかけて欲しかったのだろうか。
一つ勉強になった。